咲宮家族の日記帳

　私の父は、バイオリン以上の物を持てないのではと思わせるほど、華奢な腕をしていた。


「律花」


　柔らかく私の名前を呼ぶバイオリニストの父は、普段は物静かで華奢な、今の父親とは似ても似つかない人だった。彼の腕は私達双子を抱き上げるのではなく、ただそれはバイオリンを奏でる為のものだったので、父親に抱き上げてもらった記憶は一度もない。
だからだろうか。私は父親を初め、他人にワガママを言うのが苦手だった。
いや、言い方を知らないまま育ってしまったから、小さな子供みたいに自分の欲求を面に出すのを恥ずかしいとすら思っていた。

抱き上げられた記憶はない。
けど、その手で…叩かれた記憶は何度もあった。

父はとても癇癪を起こしやすい人で、一度は彼の愛用のバイオリンに当り、それを修理に出さなければいけない事もあった。その時は幸いにも、修理できるような傷だったのだが。


同じように私や響を叩くことも、彼のストレスの捌け口の一つだった。響と同じく、いや、彼が父と同じ体質だったのだろう、父は気管支系の病を抱えており、それが邪魔をしてバイオリンが引けないときなどは、本当に酷かったものだ。

響は叩かれると、彼同様に気管支の病気が表面に出てくることがあったので、それを煩わしいがっていた父が頻繁に叩いていたのは私。それを響は酷く気にしていた…それは父が死んだ今もだ。


父がキライかと聞かれたら…実は私は今もあの父の事が憎めずにいる。響にこんな事を言ったら、どんな顔をするかも分かっているけど。

だって、普段は優しくて可愛がってくれたのを今でも覚えているから。

私が料理を作れば、美味しいと頬を綻ばせて少食のくせにたくさんお代わりしてくれた。あまりに食べ過ぎて(とは言っても一人分に本の少し色をつけたくらいの量だけど)、後で胃薬を飲んでるのも知ってた。

女の子らしい事に興味を持てば、「律花が可愛いのはパパも嬉しい」と喜んで、一緒に買い物もした。

勉強は…頑張ったけど、結果が伴わなくても「次はきっといい点が取れるよ」と励ましてくれた。音楽がいい点だと特に喜んでいたのは今でも覚えている。

それだけではない。
…ただ、私を叩くとき、本当に辛そうな顔をしていたから。叩いて、しばらくすると彼は大人なのに隠しもせずに大泣きしながら私に謝ってくるのだ。


「ピーターパンみたいだと」


響が父を貶してそう呼んでいたことがあったのだが、確かにその言葉が彼にはピッタリな気がする。

だから、私は父がいなくなった今も、彼を憎めないのだろう。彼が喜んでくれた自分でいようとしているのだろう。
ピーターパンのような彼が、あの時の私にとってはたった一人の父親だったのだから。


私がいい子でいたら、父は喜んでくれた。
響にも優しくしてくれたし、綺麗なバイオリンの音色を奏でてくれた。

いい子でいたら、父は私を叩かずに済むし、泣かないでくれた。

上機嫌で子供っぽい、友人のような父親でいてくれたのだ。



一度だけ、父に反抗した事がある。
口喧嘩になって…いつも通り叩かれそうになったから、咄嗟に「そうやって叩いて黙らせようなんてズルい」と叫んだ瞬間、父は振り上げた手を黙って下ろしたのだ。

叩かれはしなかったけれど、叩いた後の泣き顔よりも酷く落ち込んだ顔で静かに涙を溢して、顔を覆って肩を落としていた。

酷い事を言ったのだと、心底後悔した
後にも先にも、父に歯向かったのはあれきり。あんな悲しい顔を見たくなかったし、父の泣き顔があの顔を思い出させるから、私は彼の作ったいい娘と言う檻から出なくなった。


あの時の父の顔は  今はもう思い出せない。
薄情かと言われるだろうが、もう10年も前なのだ。詳細に思い出せと言う方が無理な話だろう。

けれど、まだ私は父が望んだ女の子でいるらしい。年々父に面影が似てきた響がそう言っていた。
一度だけ父を傷つけた私は、父と同じ傷を負っているのだとも。

父の残したいい娘の檻を、まだ私は壊せずにいるのだとも






律花とその父親のお話でした。
父親は父親と言うよりもなよーっとしてて、どっちかと言うと
ヒステリックな母親な感じですな。

律花のルーツがファイアブラッドになったのも、心のどこかでは父親に望まれた娘と言うものの檻を壊したい、今まで色々我慢してきた概念を壊したいって気持ちからって思ってまする。


さて、次は響とその父親の話を書こうかと